2008年03月22日

文化人類学的にみた災害、からの思索

 科学・工学的な問題解決法、からこぼれおちる問題で重要な事は、防災・減災の面からなんだろう、かと考える。

 緊急地震速報や早期警報システム、建築物の耐震化、ミティゲーションといった、ハード面での整備がしっかり成されれば、災害を人間が忘れようが、被害は限りなく少なくなる、というのは王道である、と思う。

 今日、聞いた話では、トルコの地震の例を挙げて、災害へ関心が、災害直後から時間がたつと忘れ去られてしまう、という課題がどう克服されるべきか、という事を文化人類学的な視点から考察したものだった。

 結論として発表者が述べていた点は、
 「コミュニティレベルでの災害対策意識の維持・向上システムの普及」 
 と一言でまとめられるか、と思う。

 出発点は、理工学的なアプローチからもれるズレをどう解消するか、という点だということを付け加えておく。

 日本やインドネシアのある地域では、かつての津波被害に対する教訓を伝承として語りついでいる地域がある。
 トルコにも地域的なものはあるが、全国的なものはないらしい、これは察するに地震災害と津波災害の対処の単純さに起因するのではないだろうか。
 津波の場合は、潮が急激に引いたりして(引かない場合もある)、その後津波がやってきたので、潮が急激に引いたら、高所へ逃げよ、というもので、発するメッセージがシンプルである。

 一方、地震の場合は、地震が来る前の兆候は地域によっておそらく違いがあるし、きたあとも、机の下に逃げる、窓ガラスから離れる、ガスを止める、頭を保護する、鍵はかけたままで車から逃げる、といったように、場所や状況それぞれに対処があるので、発するメッセージが単純ではない。

 トルコの場合は、北に黒海、南に地中海と内海に接しているが、津波よりも地震のほうが圧倒的に発生率は高く被害も大きい。
 それ故、地域的に伝承として地震への対処の方法は残っているのだろうが、それが全域まで適用可能ではないので、人口の流動や過疎化などによってそういった伝承は活かされないのだろうか、と思う。

 伝承について述べてきたのは、防災教育という観点から、市民レベルで、どうやって息の長い防災教育を続けていくか、という事がやはり課題になるからだ。
 
 公的な教育で、低頻度突発型災害にたいして、常に危機感をあおる事はやはり不要な不安感を皆にもたらすのではないか、と思うし、案外、マンネリ化して結局役に立たない、という事にもなりかねない。

 最近の防災に関する話で、繰り返しでる視点がある。
 地震や津波、洪水、土砂崩れについてそれらが災害だといわれるのは、社会がそこにあって被害をうけるからだ、というものだ。
 地震ではなく、建物が人に害を与える、という言葉があるが、まさにそれを表している。この課題の根本は、二つあって、一つは人口増加。そしてももう一つは、地球の気候変動である。
 地震と津波はこの二番目の原因には関係しないが、他の自然災害はこの二つに密接に関わる。
 
 どちらも、その根本原因をそのまま受け入れて、付随する課題を人間の技術と科学で対処していくというのが正当路線であるのは、言うまでもない。 やはり、この課題はわれわれ一人ひとりが対処していく課題である。
 
 



Posted by shu at 16:12│Comments(0)
 
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